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2024年3月6日

人材から人財への道のり::Vol.73::遠慮とは?

ベトナム人である私は、もちろんベトナム語でベトナム人と会話でき、意思疎通もできていると思っていますが、それでもなかなか親しくならないなと最近気づきました。

弊社には新卒で入社し社歴5年でリーダーを務めてくれている女性のスタッフがいます。ある日会議の後に「少し時間をください」と言われ、どうしたのだろうと思ったら、「この度結婚をすることになりましたので休みをさせてください」とのことでした。もちろんめでたいことですのですぐに承認しました。それはそれで良いのですが、結婚式に来ていただけますかとか言ってくれるのかと思っていましたが全く言ってこない…。どうしたのかなと思い、水臭いなと思いながら「誘ってくれないの」とあえて尋ねたところ、「いや、誘いたかったのですが遠いので、お誘いするのが失礼かと思い遠慮していました。」とのこと。ベトナム国内であれば飛行機で3〜4時間以内にどこにでもいけるので、スタッフの結婚式ぐらいだったら行くつもりでいましたが、スタッフ本人が過剰に配慮しているのか、それとも田舎のご家族が配慮したのか分かりませんが寂しい気持ちは否めません。

もう一つ事例があります。これは少し仕事に関係するのですが、あるクライアントから非常に面白い求人をいただきました。私の親友がこの求人ピッタリな人材である事に気づいて、その友達に連絡をして説明したところ、「ありがとう。しかし、フク君は親友なのでフク君の紹介だったら遠慮させてもらいます。」という返事でした。なぜ遠慮するのかとを問い詰めたところ、「自分はそこでクライアントの期待通りの良いパフォーマンスが出来なかった場合、フクくんの迷惑になってしまうので、友情を大事にするために事前にそういうことが起きないよう、フク君のご紹介を遠慮します。」とのことでした。本人の意思がかたいので、それ以上の会話はしなかったのですが、私もクライアントも真剣に採用活動をしているので、私の友人だからと言って選考をスキップするわけではなく、もちろんしっかり面接などを受けてもらうつもりだったので、まるで私とクライアントの採用能力がないように感じますし、また仮に私の友人を採用して失敗したところで、さすがに大人なので紹介したことに文句を言ったり責任転換したりすることは絶対にありません。したがって、遠慮されている気持ちはわかりますが、長い付き合いなのに信用されていないことに非常に寂しい思いをしました。

このように同じ遠慮ではあるものの、日本人の遠慮とベトナム人の遠慮とでは微妙な違いがあります。日本文化では、遠慮は社会的調和を重んじる文化的価値観の一部として位置づけられています。日本人の遠慮は、「空気を読む」(周囲の状況や人々の感情を察する能力)と密接に関連しており、他人に迷惑をかけないように自己の行動を抑制することが美徳とされています。ベトナム文化においても遠慮は大切にされますが、その根底には家族やコミュニティー内での結びつきの強さがあります。ベトナム人の遠慮は、家族や地域社会に対する敬意や貢献を示す行動としての側面が強いです。したがって、日本では、ビジネス環境や公的な場においても遠慮が重要な役割を果たします。これは、社会的な階層や役割を尊重し、調和を保つためです。ベトナムでは、遠慮は家族や近しいコミュニティーの間で特に重要視される傾向があります。上記の例のように親しいスタッフおよび親友であるから遠慮されています。

これも実は私にとって新たな勉強になります。親しい間柄ほど遠慮されるっていうのが新たな発見ですし驚きで完全に納得していない面もあります。これからは親しい友達あるいはスタッフには遠慮はいらないよと何度も伝えないといけないと気付いた次第です。言い換えると自分から努力しなければ本当の意味で心の距離を縮められないと思いました。

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プロフィール
Nguyen Dinh Phuc
E-mail: nguyen.dinh.phuc@hrnavi.com
Tel: 097 869 8181

国費留学生として、選ばれ、1996年~2006年まで日本で留学と仕事を経験したのち、ベトナムに戻り、日系企業に対して、経営助言のコンサルティングをしました。ベトナム人は比較的にレベルが高くないという実態をなんとかしたく、2010年からアイグローカルリソースを創設、ベトナムにある人材のレベルアップを会社のミッションに、日々、努力しています。

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